Thursday, May 1, 2008

五台山への日本の巡礼者

私は、アジアの仏教の学生である。私の博士研究は、北東部中国の五台山についてで、6年間ぐらい このテーマを研究している。私がカナダの大学の学部生であったとき、私は最初に、アジアの仏教を研究することに興味を持つようになり、その時夏の間、中国で勉強する機会があった。私が行った場所のうちの1つが神聖な島Putuoshanだった。ここで過ごした時間に、仏教聖地についての学習に興味を持った。今、私が最も学んだ所は 五台山である。


その名前が示すように、五台山は、5つのピークを持つ。1200年以上の間五台山は、アジアで最も重要な仏教聖地のうちの1つである。この場所は、中国の仏教徒だけでなくインドの仏教徒、韓国の仏教徒、もちろん、日本の仏教徒にとっても重要だった。今日は、五台山の日本の仏教でのとても重要な役割について話したい。


なぜ、五台山は、仏教徒にとって重要な場所なのか? これは、非常に面白い質問である。唐王朝(618-907)に仏教徒は五台山が文殊菩薩の家であったと思い始めた。五台山で文殊菩薩を見た人々の話は、場所(例えば中国、インドと日本)で有名になった。その結果、多くの新しい寺院は山で建設されるようになった。、そして、より多くの人々が五台山に行くようになった。五台山への最初の最も有名な巡礼者のうちの1人は、圓仁 (Ennin, Jikaku Daishi慈覺大師794-864) である。


Enninは、9世紀の日本の僧侶 であり、天台仏教を創立した僧侶Saicho (
最澄さいちょう , 767-822)の弟子だった。彼は 京都近くのヒエイ山で聖職を授けられた。838年にEnninは中国に行き、ほぼ10年をそこで過ごした。その間 彼は彼の旅行について日記を書いた。その日記は 学者に唐王朝の五台山について教えてくれる。


彼の日記のなかで、Enninは五台山の大きな寺院について書いている。また、彼は、他の人がもんじゅ菩薩を見た経験についても書いている。彼も、自身の山での不思議な経験について言及している。Ennin が訪問した寺院は、竹林寺と金剛窟を含んでいた。彼は、五台山で文殊菩薩に会った有名な僧侶Buddhapāla (佛陀波利)について書いている。Buddhapāla(佛陀波利) と文殊は、一緒に金剛窟に入って、二度と出てこなかった。Enninは、彼ともう一人の僧侶が五台山で一緒に見た、鮮な 雲についても解説している。この雲は、文殊菩薩の徴候であった。


今日、日本の僧侶 Enninは、日本と中国に加え世界中の人々が知っている。。日本では、彼が847年に日本へ中国から持った帰った天台仏教経典で有名である。中国では、そして、特に五台山で、Enninの絵は、彼の巡礼を思い出させる。世界中の、仏教に興味がある人々は、多くの言語(例えば日本語、中国語と英語)で、彼の日記を読んでいる。この日本の僧侶は、中国の仏教と日本の仏教と 唐王朝の歴史において 重要な人物である。彼の日記を読んでみてほしい。